とあるヘタレ絵描きヲタのチラ裏雑記。
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彼らは神なのか?
ある表現を社会的害悪だとして撲滅しようとする人々についての素朴な疑問。

ある表現を「社会的害悪」だと云うのであれば、その「悪」である表現を、世の適格性のある人々(ここで誰が適格性を有するかはとりあえず触れないということでお許しを)の批判に曝すべきであるのに、どうしてそれをせずこの世から消し去ろうとするのでしょうか。
それはある意味、世の人々を馬鹿にした話だと思うのです。
つまり、ある表現を社会的害悪だとして撲滅しようとする彼らは、まるで自分が全知全能の神であるかのように「愚民のために我々がこの世から『悪』を消し去ってやるのだ!」と言わんばかりの傲慢さが垣間見られるようだ…と言ってしまうのは言い過ぎでしょうか?

やはり、彼らがある表現を社会的害悪だと主張するならば、その表現がはたして社会的害悪であるか否か世の人々に吟味されるべきであり、そのためにもその表現の自由が保障されなければなりません。

ところで、表現の自由の大切さを唱える人々も、ある表現を社会的害悪だとして撲滅しようとする人々の口を塞ぐようなことがあってはならないのは言うまでもないでしょう。
なぜなら、批判者の口を塞いでしまっては、どんなに表現の自由の大切さを唱えたとしても、それは閉ざされた世界でのマスターベーションに堕してしまうように思えるからです。
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リトルバスターズ!アニメのはるちん回を視て思ったこと。
リトルバスターズ!アニメのはるちん回を視て思ったことを、軽くメモしてみるテスト。

アニメで葉留佳シナリオを視て改めて思ったのは、葉留佳シナリオって一見葉留佳が長い苦しみから解放されるストーリーのようだけど、実は佳奈多も長い苦しみから解放されるストーリーなんだな、ということ。

で、これって葉留佳とリトルバスターズが佳奈多を長い苦しみから救ったようにも読めるけど、でもなんとなく、葉留佳シナリオにおいては「誰かが誰かを救済する」という観念は否定されるものなのかな、と思うのです。

じゃあ、佳奈多を救ったのは?
と考えてみるに、佳奈多を救ったのは佳奈多自身の「ことば」ではないかと。
すなわち、苦悩、そして葉留佳への想いを「ことば」にすることで長い苦しみから解放されたのではないかと。

以上、そんなことをふと感じたアニメのはるちん回でした。
森美術館の件について思うこと。
界隈でイロイロ議論になっている森美術館の展覧会の件。

この件に関しては、「そもそも表現の自由を認めるに値する芸術といえるか否か」といった議論のカタチもあるかと思います。

ですが、このような視点での議論ですと、「芸術」というあいまいなモノサシを用いて考えることにより、安易に結論を出してしまいかねないのではないでしょうか。

やはり、ここでの議論は、表現の自由の対立利益を明確にするという形でなされる必要があると思うのです。

そうしてみると、はたして、展示作品の撤去を求めている団体の「不快」という主観的利益(究極的にこれを理由にしているとしか私には思えないのですが…)を理由に表現の自由を奪うことは許されるのでしょうか?
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