とあるヘタレ絵描きヲタのチラ裏雑記。
「幻想世界」とは、何だったのか。
今日4月28日はCLANNADの発売記念日ということで、CLANNADの「幻想世界」についてなんとなく考えてみたことなどを、チラシの裏にそこはかとなく。

CLANNADという物語を読み解くうえで、おそらく最も重要なキータームのひとつであろうと思われる、謎めいた「幻想世界」。
素直に考えれば、「幻想世界」とは何も無い、荒涼とした謎の少女と少女が作り出したガラクタ人形の世界、なのでしょう。
しかし、そのように考えると、「幻想世界」はますます謎めいたものとなってしまうのではないかと。
思うに、「幻想世界」とは、渚や朋也や春原や杏や智代やことみや・・・そして私たちが、揺るぎない「現実」と信じて疑わない、「現実世界」そのものなのではないでしょうか。
なぜなら、私たちが「現実」として揺るぎなく、確かに存在すると信じて疑わない「世界」は、本当は脆く儚い、一瞬にして過去へと死に行き未来さえも雲のように掴むことのできない不確実な、幻影のようなものだから。

そうしてみると、CLANNADにおける「現実世界」とは、何も無い荒涼としたあの<幻想世界>が、例えるならば映写機としてスクリーンに映し出した「幻想世界」なのではないかと思うのです。それゆえ、「汐END」の世界も、「渚TrueEND」の世界も、いずれも<幻想世界>が映し出した「幻想世界」として、決して矛盾するものではないのだといえるのではないかと。
さらに、「現実世界」として<幻想世界>に映し出された「幻想世界」とは何かと考えてみるに、「現実世界=幻想世界」は、<幻想世界>の少女の<意志>を表象したものではないか、そして、少女は、自らの<意志>を「現実世界=幻想世界」として描き出すために、ガラクタ人形を作り出したのではないかと。
すなわち、CLANNADという物語の世界は、「少女の幻想」なのです(ここできっと貴方は、ある1枚のミニアルバムを思い浮かべるでしょう…)。

ところで、CLANNADという物語を読み解くうえで、「幻想世界」と並び重要なキータームのひとつであろうと思われるのが、これまた謎めいた「町の意志」。
この「町の意志」とは、それこそ<幻想世界>の少女の<意志>と考えて良いのではないでしょうか。
すなわち、CLANNADという物語の世界は、「『<幻想世界>の少女の<意志>』の表象=『町の<意志>』の表象」である、と。
ここで「『町の<意志>』=『少女の<意志>』は、冗談ではなく「CLANNADは人<生>」なのであれば、それこそ<生>への意志と言い換えても良いかもしれません。そう、「冷たい朝の日も、痛みや悲しみさえも味方に変えながら、迷わずに進んで行く」、<生>への意志であると。
そして、この<生>への意志は、「CLANNAD」という作品から「智代アフター」という作品へと、止まることなく進んで行くのです。
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肌寒い日が続く、もう春なのに・・・
渚ちゃんが大好きです。
肌寒い日が続く、もう春なのに・・・
でも、目覚まし時計より早く起きることはありません(キリッ

ってなわけで、いや、ってなわけではありませんが、春はCLANNAD、ってことで(クドい
新年に続きまた渚ちゃんを描いてみました。

ハイ、渚ちゃんがめちゃめちゃ大好きです。
いや、もうくちゃくちゃだ、くちゃくちゃ大好きです(∵)
ホント、大好きな娘は何度描いても描き飽きるってことはありません。
最後はどうか幸せな記憶を。
Key作品に関して思うことを、チラシの裏にそこはかとなく。

Key作品(麻枝作品)に対する批判としてよくある、「Key作品は泣かせるためにヒロインを死なせる」という批判。
もしかすると、Key作品における「死」の取り扱いは単にユーザーを「泣かせる」ための演出にすぎないのかもしれません。

しかし、私が思うにKey作品においては、「死」をどう捉えるかというのが重要なテーマのひとつであって、それを語る上で「死」を取り扱うことは不可避なのではないかと。
すなわち、はたして物理的な「死」=「死」であるのか?これがKey作品における重要なテーマのひとつであると思うのです。
極端な言い方をすれば、麻枝氏は「死」とは「物理的な生命の消失」ではなく、「記憶の消失、断絶」こそ「死」であると考えているのではないでしょうか。

このようなことを私自身が強く感じた作品は、「智代アフター」でした。
結婚式の誓いの台詞で「死が二人を分かつまで」というのがありますが、果たして本当に「死」が「二人を分かつ」のだろうか?
本当に「二人を分かつ」のは「物理的な生命の消失」という「死」ではなくて、「記憶の消失、断絶」こそが「二人を分かつ」「死」なのではないだろうか?
そして、裏返しで言えば、「『二人の想い出』という『記憶』」を得ることができれば、「えいえん」を手に入れることができるのではないだろうか?
だからこそ、「智代アフター」で智代は朋也の記憶を取り戻すための行動をとり、それにより朋也との想い出を再生しようとしたのではないかと思います。
そしてそれにより、智代は朋也との「えいえん」を手に入れることができたのではないかと。(その意味で、批判の多いPC版のラストはあのような形にならざるを得なかったのではないかと、個人的には思います。)

この、「『記憶』の連続」こそが、ONE以来麻枝作品を貫く「えいえん」の本質であり、Key作品における「死」の裏返しである「生」なのではないでしょうか。

AIRという作品を象徴する、「最後はどうか、幸せな記憶を」というフレーズ。
AIRの解釈としては、観鈴ちんに幸せな記憶を与えてあげることで、神奈の魂を解放してあげたというのが素直な解釈なのかもしれません。
しかし、観鈴ちんに幸せな記憶を与えてあげることが核心なのではなく、むしろ往人や晴子たちが観鈴ちんとの幸せな記憶を得ることで、観鈴ちんとの「えいえん」を手に入れることができるということなのではないでしょうか。
すなわち、往人や晴子たちが、観鈴ちんとの「幸せな記憶」を失ってしまわない限り、観鈴ちんと「えいえん」に生きていくことができるのです。
そして、智代も、朋也との「幸せな記憶」を失ってしまわない限り、朋也と「えいえん」に生きていくことができるのです。

「えいえん」はあるよ。
ここにあるよ。
「幸せな記憶」という姿で。