とあるヘタレ絵描きヲタのチラ裏雑記。
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エースをねらえ!智代さん。
今月はCLANNADの智ぴょん(智ぴょんいうな!)の誕生月(相変わらず誕生日に間に合わせる甲斐性が無くてゴメンナサイ)というわけで、CLANNADの智ぴょんを描いてみました。エースをねらえ!智代さん。
水泳部と対決する智代さんも非常に捨てがたいですが、
個人的にはやはりテニス部と対決する智代さんがとってもステキなのです。
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「本物/偽物おっぱい問題」再考
以前のエントリ「正しいおっぱいとは、何か?おっぱいが「正しい」とは、どういうことか?」について、ついカッとなって書き散らしてしまったことを反省し、少々頭を冷やして考えを練り直してみることとします。
決して、萌え絵のおっぱいが好きだから本物/偽物おっぱい問題を引きずっているわけではなく…嘘です。萌え絵のおっぱい大好きです…。

それはさておき。

たとえば、「美しい」花が「ある」とします。しかし、この花は見る者に「美しい」と感じてもらうために「ある」のではありません。思うに、この花の美しさは、見る者の内にある「美しい」という感情の照り返しにすぎないのです。
これに対して、「美しい」花の絵があるとします。この花の絵は、描き手の内にある「美しい」という感情を自由な精神で具現化したものであって、その存在は人間の自由な精神を基盤とするものです。そしてそれは、「美しい」という感情を具現化したものであるがゆえに、いわば裸の存在としての「花(の絵)」としてではなく、まさに「<美しい>花(の絵)」として視る者に対して存在するものといえます。つまり、「美しい」花の絵は、見る者に「美しい」と感じてもらうために「ある」のです。
そしてまた、この花の絵の美しさは、見る者の内にある「美しい」という感情の照り返しではなく、描き手の「美しい」という感情を自由な精神により具現化したものを享受するという形で見る者のうちにある「美しい」という感情を自由な精神により具現化する、すなわち描き手と見る者の内にある「美しい」という感情を自由な精神により具現化したものであるという意味で、この花の絵そのものの美しさであるといえましょう。

以上を本物/偽物おっぱい問題にあてはめて考えてみれば、“本物”のおっぱいと萌え絵のおっぱいとはそもそも存在の意義を異にするものであって(なによりもまず萌え絵のおっぱいは人間の自由な精神を存在の基盤とするものである)、そうしたものを比較して一方のものと異なるがゆえに他方のものを“偽物”であると断ずるのは、あまりにもナンセンスであると言わざるを得ません。

うーん、頭を冷やして考えたつもりが、やはり今回もカッとなって書き散らしてしまった。もっと精進しなければ…。
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