とあるヘタレ絵描きヲタのチラ裏雑記。
井ノ原真人と「存在の不安」
「リトルバスターズ!Refrain」において、井ノ原真人を暴走させたものはいったい何であろうか?

私が思うに、それは端的に言えば「存在の不安」である。すなわち――

真人は言う、自分が「最強であることを証明する」と。
それはつまり、真人にとって、「最強であること」が「井ノ原真人であること」を意味するのではあるまいか。逆に言えば、最強でなければ井ノ原真人ではないのである。
そうして、真人は自分と全く同じ姿をした“他者”を否定して、自分が「最強であること」を証明しようとする。しかし、はたして真人は“他者”を全て否定することで自分が「最強であること」を証明することができるのであろうか。つまり、“他者”を全て否定しまっては真人が最強であることを誰も保証してはくれないのである。そうすると、自身が最強であることを真人が証明できなければ、井ノ原真人という存在は、何者でもないことになってしまうのだろうか。

だがしかし、直枝理樹は言う、「どんな真人も真人だ」と。それはつまり、「最強である」から「井ノ原真人」なのではなく、まさに「井ノ原真人」であるからこそ、「井ノ原真人」なのだ。
さらに理樹は、きっとこう言うだろう。「真人は真人だから、強くなれるんじゃないのかな。」
そう、「井ノ原真人」という存在があるからこそ、真人は強くあろうとすることができるのではあるまいか。
自己の存在意義を証明しようと他者を否定してしまえば、存在は何者でもなくなってしまう。しかし、自己の存在を認識してくれる他者があれば、存在は何者であることもできるのである。

ところで、麻枝作品ではしばしば“強さ”が「暴力」という形で表現される。
しかし、それは決して麻枝准が強さ=暴力であることを肯定しているというわけではない。
麻枝准は、リトルバスターズ!という作品において、本当の「強さ」を描き出している。つまり、理樹がリトルバスターズ!という物語において得ることのできた力=生成する力こそが、本当の「強さ」である。そしてそれは、真人がリトルバスターズ!の仲間との出逢いを通じて得ることのできた、本当の「強さ」である。

(リトルバスターズ!Refrain 考察)
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